ゆらりゆらりと揺れる意識の中、

耳に心地よい音が、確かに言葉を成していた気がしたのだ。



オレもだよ、と。






息吹







ブザーが鳴った。

試合が終わった。


無機質な笛の音が鳴り、審判から整列の号令が出された。

礼をしたときの僕の体は、彼の体に支えられていた。



汗をかいた肌が密着することは気持ちが悪かったけれど、それ以上に心地良くもあった。

息が荒いはずなのに、やけに呼吸をしやすかったことを覚えている。


バッシュの裏にはもう埃がついていて、よく滑った。





「…重いでしょう。」

「まあ、人ひとり分の重さはあらァな。」

「放していいですよ。」

「そうしたらお前はどうなる?」

「ここで休んでいきますよ。」

「ばーか。」

体育館の裏を通って控室へ戻る途中でした会話。

肩をかついで歩くには、人込みでは効率が悪い。

優しい彼の背で、彼の呼吸と歩くテンポ揺られて、まるで幼稚園くらいの子供に戻ったような錯覚に陥ってしまう。



「…ふふ。」

「……いきなり笑うなよ。気持ち悪ィ。」

「すみません。」

「本当に悪いと思ってっか?」

「ちっとも。」

「だよなァ。」


軽口を叩く僕と彼の距離はゼロ。

呼吸は大分整った。

それでもまだ鼓動は速い。

それすらもわかるほどに近い距離。




「先輩や、降旗君たちは?」

「荷物持って、先に行ってもらってる。あとからお前を連れて行くからっつって。」

「悪いですね。」

「いんだよ。その代わり、今度の荷物持ちはオレらこき使われるぜ。」

「それは大変ですね。」

くすくすと笑うと、彼も笑い返してくれた。

自然な所作で彼は僕を背負い直すと、そのまま人がまばらにしかいない道を進んで行った。



暑苦しいほどの体温が彼から伝わる。

自分の体温も、きっと彼にとっては熱いのだろうと思うと、少し愉快な気分にさえなる。



「なあ、」

「はい?」

「ちょっと、寄り道して行こうぜ。」

くるりとこちらを向いた彼の中では、既にそれは決定事項で。

理由を聞くことも咎めることも出来なかった。




















「……監督に、怒られますよ。」

「少しだけだからへーきへーき。」


彼の「へーき」は全く信用できないけれど、信頼はしてあげようかと思う。

いざ怒られたとなったら、全て彼のせいにしておこう。




体育館の裏側。

そこにあったのは、小さな花壇と、数段の階段。

体育館が大きな影を作っていて、汗をかいた肌には、風が少し冷たく感じた。


観客は体育館の観客席に、選手たちはそれぞれ体育館か控室か、外にしてももっと広い場所でアップをしている。

そんなときに体育館裏に居る物好きなんて、僕らくらいのものだ。




彼は僕を背からゆっくりと降ろして階段に座らせると、自分はその階段の一段下に座った。

普段は見上げなければ合わない目線が合って、少しばかり嬉しくなった。



「寒いか?」

「いいえ、涼しいですよ。」

本当は少しばかり寒かったが、それでも構わなかった。



そろえた両足の上に肘をついて、その上に頭を載せた。

花壇に植えられた小さな花がゆらりと揺れても、体育館の大きな影と一体になった影は、動かなかった。




頬を掠める風にそっと目を瞑ると、髪にふわりと何かが触れた感覚がした。

それは至極ゆっくりに僕の髪を撫ぜては、毛先を少し引いて放してを繰り返した。



「…汗、つきますよ。」

「知ってる。」

「…まだ、乾いていないでしょう。」

「そりゃあな。」

ゆるりゆるりと、彼の大きな手は、僕の髪を撫ぜることを止めない。

丁寧に丁寧に、まるで何かを慈しむかのように、ひどく優しく触るのだ。




迷子の子供は、きっとこんな気分だっただろう。

知らない街に迷い込んで、うろうろと見慣れない街並みを見上げて涙をこらえて。

大切な人の名前を呼んで、叫んで、飲み込んで。

その人に似た人を追いかけては、全く違う人だったと肩を落として、また探して。

探して探して探して、ようやっと見つけた、そのときには、




「………っ、」

ひくりと喉がひきつった。

喉が渇いているわけではない。

先程大量に水分補給をしたばかりなのだから。





視界が歪む。

カラフルだった花壇の花は、もう一本一本の識別が出来ない。




未だに僕の髪を撫でることを止めない彼は、それに髪を撫でる手を止めた。

そしてそっと僕の頭の後ろに手をやって引き寄せると。ゆっくりとお互いの額を合わせた。





「…ずっと、泣くの、我慢してたな。」

「………、」




「……偉かったな。」

「…ふ、」




歪んでいた景色は、眸からあふれ出る水泡と一緒に、頬へと流れた。

コンクリートの階段は、一部分だけが雨が降っているように、色が変わっていく。


彼は、えらいねと、褒めてくれたのだ。

試合の内容でもなく、試合の為の練習でもなく、試合が終わってから、歯を食いしばっていた僕を。



本当は、本当は、

審判が笛を吹いてからずっと、

ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、

違うユニフォームを着た彼の傍に走って行きたかった。

呆然とする彼を抱き締めてあげたかった。

彼に、僕が涙を流させてあげたかった。



それだと言うのに、この足は使い物にならなくて。

色の違うユニフォームというものには、こんなにも大きな隔たりがあって。

結果、隣の彼が、彼を救った形になったのだ。





「っ、あ、ぁ、ぁああ…!」




目の前の彼のジャージにしがみつくと、僕の指が掴んだところの布が引っ張られた。

じわりじわりと色の変わる自分のジャージにも、彼は何も言わず、髪を撫でていくれた。


彼は只管嗚咽をこぼす僕に何も言わなかったけれど、髪を撫ぜる掌は、全てを語ってくれているような気がした。





えらかったな、と。





+++







一通り泣いて、彼のジャージの色がかなりの広い範囲の色が変わってしまったころ、僕はゆっくり体を起こした。


「…あー、すっきりした。」

ずび、と鼻をならせて言えば、彼はいきなり、ぷは、と笑った。


「あんだけ泣いてたやつが、いきなりトイレから出てきましたみたいなこというんじゃねーよ。」

「火神君ってば下品ですよ。」

「いんだよ。」

こつりと、手の甲で額を叩かれた。




「……行くか。」

「…はい。」

よいしょ、と当然のように僕を背負った彼は、再びゆっくりと歩き出した。

彼が地面を踏むたびに、汗が乾きかけた髪が揺れた。




そっと彼の背に頬を当てると、声に出さずに、唇だけを動かした。

それだというのに、彼はどんな勘をしているのか、いきなり後ろを振り向くものだから、思わず首をぐきりと捻ってしまった。

それに文句を言いつつも僕を落とさない彼は、やっぱり、ただの優しい人だ。







「火神君。」



「あ?」



だるそうに声を上げた彼は、もう、かつて見ていた相棒の彼ではないけれど。


でも、確かにここに居て、僕の心臓の半分を持っている。





「…火神君。」


「だっから、何だっての。」




「…かーがみくん。」


「……何を上機嫌なんだか。」



そうは言っても、、黒子、と名前を呼んでくれた君は、きっと知っているんだろうね。


僕がもう、自分で歩けるくらいには、回復していると言うことを。








「さっきの記憶は、抹消しておいてくださいね。」

「永遠の心のアルバムに閉じておくわ。」

「そんなもの僕がびりっびりに破いてあげますよ。」


笑いながら、二人分の影を足元に、皆の居る部室へ向かう。



「ごめんなさい。重いでしょう。」

「歩けねえんじゃ仕方ねえだろ。」

「…そうですね。」


仕方ないよね。歩けないんだもの。

それを免罪符に、僕らはしばらく、同じ鼓動のリズムを分かち合う。

とくりとくりと脈打つそれは確かに二つ分だけれど、一つになってしまえばいいと思う。




「ねえ、火神君。」

「あ?」





「…何だか、呼吸が、しやすいんです。」


「……そうか。」





ええ、と頷いたけれど、その声が彼に届いたのかは、良くわからなかった。






ただ後で分かったことは、僕はここで意識を手放して、眠りの世界へ行ったということだけだった。


僕の意識が消える前に彼は何かを言っていた気がしたけれど、あれは僕の気のせいだったのだろうか。






+++


我が家の二人は多分ずっとこんな感じです。

恋人でも家族でも主従でもなくて、それなのにお互いが居なかったら息が出来ないんです。

難しいですね。人間関係ってのは。