黄瀬涼太は、ぶつかった。




通学路の曲がり角で。

遅刻寸前の朝に。


地面に強かに背中を打ちつけて、ああコレは痣になるかもしれないと冷静に思う。

起き上がろうと地面に手を着くと、自分の手の横に、もうひとつ手があった。



否、手だけがあった。




「……は?」



ヒューマノイド  世界





「あ、どうもすみません。それ、僕の手です。」


「え?ああ、そう…。」

そう、君のなの、この手。

なんかこう、本来は腕に繋がるはずの手首の部分から上には何もなくて、

代わりに千切れたコードやら金属片やらが中から覗いているんだけど。



そう、君のなんだ。これ。この手。


手首で見事に腕と手に分かれているみたいなんだけど。


そう。そうなの。



視覚情報を脳が処理する前に、目の前の水色の髪を持った少年が、その手を拾い上げた。

そして、手と同じように本来あるべきものがなかった右の腕に、その手を嵌めこんだ。

ガキン、と、本来生身の人間から発せられるはずのない音が鳴る。




「………え?」



「では、僕は急ぎますので。」

ぶつかってすみませんでした。失礼します。


ぺこりと礼をすると、その少年はひょいと近くの塀に登って、そのまま屋根に飛び移った。

そして屋根から屋根へと、軽快に走って行く。





学校のチャイムがすぐ傍で聴こえても、オレは中々その場から動くことが出来なかった。






(ああ、遅刻だ。)








+++






「ぁああああああ青峰っちぃいいいい!」

「あんだよ今日もうるせえな。遅刻してきて何騒いでんだ。」

「今日は本当は間に合うはずだったんス!じゃなくてちょっと聞いて!」

「ぉ、ぉお?」

青峰の腕を掴んでぐらぐらと揺さぶれば、頭に手刀を喰らわされた。

手加減なしのそれはかなり痛かったが、混乱した頭に冷静さを取り戻させるくらいには丁度よかった。



「…ねえ、1限サボりたいって言ったら、付き合ってくれないっスか?」

この時のオレは、多分ものすごく微妙な表情をしていたのだと思う。

何時もならここで軽口を叩く青峰が、何も言わずに了承してくれたのが、その証拠だ。



半ば青峰に連れられるようにして、屋上への階段を上がる。

脳内の整理をしようと思っても、今朝見たばかりのあの異様な光景は、中々片づけられてくれない。



がちゃ、とくすんだ銀色の扉が開く。

開くと同時に、扉の数メートル先にある、細い柵の上に立つ人物に目を奪われた。




「……あ、あお、青峰っち…。」

「いて、て、何だよ。」

バンバンと遠慮なしに目の前の青峰の背を叩くと、不服そうな声が聞こえた。

殴り返される心配なんかしている場合じゃない。



だって、だって、





「おや、また会いましたね。」





もしもここが、屋上ではなく教室で、

両手を手を広げて挨拶をした相手が少年ではなく可愛らしい少女で、

「お前はさっきの…!」なんて言うことが出来たならば、なんて少女漫画な展開だったのだろうか。




そんなことを冷静に考えている脳とは裏腹に、オレの口は、開いたまま言葉を発することが出来なかった。





+++




屋上の手すりの上を危うげもなく歩く少年。

手すりの幅は約5cm。

手すりの向こう側に落ちたら、間違いなく命はない。



「…オイ、お前、危ねえぞ。」

「ああ青峰っちそっち行っちゃ駄目!」

「んだよ、落ちそうな奴ほっとけってか。」

「違う!そうじゃなくて!」


多分その人、人じゃない!



叫ぶように言えば、さすがの青峰も少年へ向けていた歩みを止めて、こちらに向き直った。

お前、何言ってんの、と聞かれれば、ふるふると首を振って、人じゃない、と繰り返すことしか出来なかった。



「…いやお前ホント何言ってんの。頭大丈夫か。保健室行くか。」

「ちっがーう!何その優しさ気持ち悪いっス!」

「良いか黄瀬、あそこにいるのが犬や猫に見えるか?なら今すぐ病院へ行け。」

「アンタが行ってきてほしいっス!ってか人の話を聞けえ!」

もー!と怒れば、青峰は首を傾げている。



それはそうだ。

自分だって朝のあの光景を目にしなければ、普通の少年が手すりで遊んでいると思うのだろう。

落ちたら危ないっスよ、と声をかけることも出来たのだろう。


でも、出来ない。

だって、だって、






「…えーと、黄瀬君と、青峰君、ですか?」


「うんまあそうスけど、……って、ぇえ!?」

手すりの上を悠々と歩いていた少年は、いつの間にかオレたち二人の横に来ていた。

どうやらオレたち二人の名前を、今の会話で聞き取ったらしい。


やはり普通じゃない。


人が動いた気配がしなかったことも。

朝オレが見た光景も。




この少年は、人間じゃない。




じゃあ何のために、ここに。

あれか、誰かを暗殺に、とか。

学校の内部事情を盗聴に、とか。

そういう犯罪組織的なものだろうか。




そんな風に考えて居れば、青峰は何も考えていないのか考えた上でなのか、おい、と簡単に少年に話しかけた。


「オメー誰だ?制服着てねえけど。」

「あ、僕はここの生徒じゃなくてですね、黒子テツヤと申します。」

初めまして、と丁寧にお辞儀をされては、青峰も慌てて頭を軽く下げていた。

普段はお辞儀なんてしない青峰が咄嗟にそんな行動に出ていて、うっかり笑いそうになってしまう。




「…えーと、で、何でお前はこんなとこに居んだ?」

体裁悪そうにがりがりと頭を掻いて、青峰は黒子と名乗った少年に話しかけた。


そうすれば少年は、今思い出したと言わんばかりに着ていたパーカーのポケットを漁った。

少年の着ているものはこの学校の制服ではなく、灰色のパーカー、黒のシャツにカーキのチノパンという出で立ちだ。


そしてその灰色のポケットからひょいと何かを取り出すと、オレに向かって拳を突き出した。


「……オレ?」

「はい。朝ぶつかった拍子に、僕のポケットに入ってしまっていたようで。」

ここの制服に見覚えがあったので、届けに来たんです。


そう言った彼の掌からオレの掌に転がったものは、冷たい感触。

自らのブレザーの胸元を見れば、確かに校章が無くなっている。




「……あ、えーと、ありがとう。これを届けに?」

「ええ、まあ。」

「そっか…。」

そっか、と呟いて掌の中の校章を見る。






この少年の目的は、盗聴でも暗殺でもなかった。

学校の購買で数百円で買える、ただの小さな校章だったのだ。


そう思うと、なんだか色々考えていた自分が馬鹿らしく思えた。




そうだ。朝は色々とバタバタしていたし、走って疲れていた。

手首が落ちたなんてオレの見間違いで、もしかしたら手袋だったのかもしれない。

コードのように見えたものは、アクセサリーとか腕時計の類だったのかもしれない。

そしてわざわざそれだけの目的のために学校に入り、屋上で遊んでいたに違いない。


一度そう思うとそんな気がして、急に気が楽になったのを自覚する。

オレって単純だったんだなあ、なんて、こんな状況で確認することになるとは思わなかった。





「…えーと、黒子、テツヤって言ったっけ?」

「ええ。」

「じゃあ黒子っちって呼んでいい?オレは黄瀬涼太っス。」

わざわざありがとうね。

そう言って自らの手を差し出して握手の意を示せば、少年からも手を握り返された。





うん。きっとそうだ。彼は人間なんだ。


たとえ自分が今握っている手が体温を全く感じさせないような代物だとしても。

たとえ爪がちゃちなプラスチックの様なものに見えたとしても。


彼は人間、の、はずだ。




そう思い込んでいる瞬間、がこん、と自分の手のあたりから嫌な音が響いた。

ガン、と屋上の床に何かが落ちた音までする。





「…………え…?」



「あ、またですか。」

やっぱり、一度壊れたら直してもらわなきゃ駄目ですね。


そう呟いた少年の手首からは、たった今見間違いとして脳内で処理した風景と同じようにコードが見えていた。









「では、僕は帰ります。黄瀬君、青峰君、またどこかでお会いしましょう。」



少年は、腕と繋がった左手で、腕から外れた右手を拾い上げた。

そして、ぺこん、と自己紹介をしたときと同じように頭を下げた。





そしてその一瞬後にオレの目に映った少年は、


屋上の手すりを軽々しく飛び越え、その身を空に投げ出していた。














オレはと言えば、少年の安否を確認する必要性を感じることもなく、


この光景を見て固まっている青峰大輝に、ねえ、と話しかけることしか出来なかった。







「…………だから、人間じゃないって、言ったでしょ?」






しばらく茫然とした後、彼が小さく頷いたのが見えた。







+++


ひとではないものの黒子さん。