ぼちゃ、と不吉な音がした。 その音がした方を振り向けば、自分よりも数m後ろに、少年が立っていた。 その少年の足元には、水たまりに浸かる一冊の本。 その本は水と泥で、残念ながら、もう読める状態ではなさそうだ。 一方で少年は、頭の中が真っ白になったかのように、フリーズした状態から動かなくなっていた。 雨の日に見つけたその人の話 オレは、雨が、嫌いである。 水も滴るなんとやら、とはよく言うが、正直、海やプール以外で水を浴びたいとは思えない。 こんな日は湿気でじめじめしているし、制服が濡れるし、一々傘を持つのも面倒だからだ。 「夏で、暑くて、湿気で、蒸れて、」 もう最悪、と呟く。 ひとり言にしては大きな声だったが、人通りも少なければ、雨音で周りの音は大して聞こえない。 そもそも人に聞かれて居ようと居まいと、大した内容でもない。 めんどくさい。 はやくかえりたい。 ねむい。 あつい。 負の言葉が頭の中を占拠する。 仕方がない。この暑さ、この天気。 そんな風に考えていた時、いきなり両の耳に飛び込んできた音。 振り向いた眸には、自分よりも一回り小さな少年が映った。 +++ フリーズしたままの少年を放っておくわけにもいかず、仕方なく今来た道を少しだけ戻る。 ぱしゃぱしゃと足元で水が跳ねた。 「……ええと、大丈夫…?」 雨水でびたびたになった本を拾い上げる。 かろうじて少ししか濡れていなかった部分を持ったが、それでも手は濡れた。 「………え、と、…」 返事がない。動かない。 生きているのかどうかを疑いたくなった時、いきなり少年の頭がふるりと揺れた。 小さな口が開く。 「……………あ、」 「…あ?」 「ぁああああぁああ…!」 「ぅううわぁあああああ…!?」 が、と腕を掴まれて奇声を上げられた。 思わずこちらも声を上げれば、少年は再び動かなくなった。 その少年の視線は、一直線にオレの持つ本に向いている。 どうしよう。 どうしよう。 とりあえずものすごく帰りたい。 ちょっとこの子こわい。 「…………しょ、」 「……しょ?」 ぽつりと呟いた少年の声に、条件反射で聞き返す。 そうすれば、小さな声が弱々しい音で聞こえた。 「初版本、だった、のに、」 「……あー…。」 「ずっと、探してて、やっと、見つけて、それで、」 「………あちゃ…。」 「…いくら気になってたからって、雨の中、読むんじゃなかった…。」 表情を歪めることすら出来ないのか、少年は微妙な顔で、オレが持っていた本をそっと受け取った。 うそ、と呟いた顔は、もう少しで泣いてしまうのではないかと思った。 「……え、と、」 がさがさと鞄を漁って、目的のものを引っ張り出す。 昼間使っていたタオルだけれど、大して汚れてもいない。 そのタオルそっと少年の持っていた本を包むと、すぐにタオルにじわりと水が滲んだのが分かった。 よほど水を吸い込んでいたのだろう。 「…え、あ…!」 「いいから。」 泥が滲むタオルを見て声を荒げた少年を声で制する。 だって、仕方ないだろう。 泣きそうな人間を前に何もしないでいることが出来るほど、ひどい人間じゃない。 じんわり、じんわり。 タオルに水と泥が滲むのを、ただ只管、知らない少年と見ていた。 「…うん、これ以上は、無理っぽいスかねえ…。」 下手にすると破れそうで、と言いながら再び本を少年の手に渡せば、白い指がそれを受け取った。 「ありがとう、ございます。」 「いえいえ。」 「…あの、タオル、すみません。」 「え?ああ、別に良いよ、洗えば落ちる。」 大したことないよ、と言えば、ものすごくわかりにくい表情で笑ってくれた。ような気がする。 やっぱり違うかもしれない。 少年は片手で持っていた傘を腕と肩で挟むと、本をそっと両手で抱えた。 「…では、僕はこれで失礼します。色々ありがとうございました。」 「いやいや、元気出してね。」 「はい。」 ひらひらと手を振れば、向こうはぺこりと頭を下げた。 同じ制服、そして学年章を見る限り同じ学年なのだから、普通に気軽に手を振ってくれてもいいんだけど。 まあ、うん、体格差的に2つ3つ下に見えなくもないんだけれども。 まったりと歩きながらそんなことを思っていれば、赤信号につかまった。 ふむ、とひとつ考えて携帯を取りだす。 思い当たる適当なアドレスを引っ張り出して、通話ボタンを押した。 「あ、もしもし、黄瀬です。突然すみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど。」 雨がしとしとと靴と制服を濡らしていたが、家に帰るまで、そんなことには気がつかなかった。 +++ 制服が分かると学校までつけてくる、なんてストーカーの話を良く聞く。 そのため、好奇心旺盛な女子生徒たちに、ネットでプリクラやらなにやらを公開しないように、、と良く教師軍が呼びかけている。 が、今のオレはそうではない。 決してそんな低俗極まりない行為をしているわけではない。 自分に言い訳をして、同じ学年のクラスをひとつひとつ見て行く。 「てか、同じ学年なのに、顔知らなかったとか…。」 話したことは無くとも、同じ校舎内で一日の大半を過ごしているのだ。 同じ学年で、同じ性別で、見知らぬ顔が居る方が珍しい。 それだというのに、全く見覚えがなかった少年。 「……あ、いた。」 窓際に座って、この間とはまた別の本を読んでいる少年。 いや、同い年なのだから少年はおかしいかもしれないが、まあとりあえず、あの時の彼。 ずかずかと入って行ってしまうかと思ったが、ここは学校。そう言うわけにもいかない。 他のクラスにやたらめったら入っちゃいけません、なんて、先生方のお言い付けがあるからだ。 教室の扉のすぐ傍に居た、このクラスの友人の制服を引っ掴む。 襟の辺りを掴んだせいか、ぐ、と息がつまるような声がした。 「なあ、あの窓際のちっさめの子、名前何。」 「別に小さくねえよお前がでかいんだよ。」 「オレのこの身長は仕事で重宝されてんだよ。」 「うぜえ。でもそういや名前なんだったかなあ。」 なんか、忍者みたいな名前だった気はするんだけど。なんて考え込んでしまった。 お庭番?と聞けば、そんな名前の奴が居てたまるか、と返された。ごもっともだ。 それに適当に礼を言って、なんだかもう色々と面倒になって、勝手に教室に入り込む。 呼ぶ名前が分からないのだ。仕方なかろう。 本を読んでいる少年の机を、軽く拳で叩く。 コンコン、と小さな音が鳴る。 水色の髪が揺れ、それと同じ色の眸が上を、こちらを見る。 「……あ。」 「覚えてる?」 「もちろんです。」 その節はどうも、と小さくお辞儀をされた。 礼儀正しい。慌てて自分も軽く頭を下げた。 あれ、オレ、何やってんだろう。 「…えーと、とりあえず、用件はコレ。」 はい、と持っていた小さな袋を少年の前に差し出した。 その袋は、家にあった袋の中から選んできた青色。 なぜ青にしたのだろう、水色にすればよかった、なんてどうでもいいことを思う。 いやまあそんな色が家にあったかは謎だが。 少年は突然差し出されたものにどうしたらいいのか困惑の表情を浮かべながら、それでも受け取ってくれた。 かさりと袋を開けて中を覗いた少年は、その中身を手にとると、動かなくなった。 ああ、会った時と同じ反応してる。 そんなことを思っては、ついくすりと笑いそうになってしまって、慌てて口を抑えた。 「…あ、あの、あの、これ…。」 「うん、あげる。」 「…でも、あの、頂けませんよ。」 少年が持っているものは、この間少年が汚してしまった本と同じもの。 つまり、その価値が分かる人にとっては貴重な、初版本。 困ったような少年の声を聞いて、それはまあ普通の反応だ、と自分でも冷静に思った。 というか、思っていた。数日前から。 それでも、あの泣きそうな表情がどう変わるのか、気になったのだから、仕方がないだろう。 「…これ、本を捨てたいって友人が居たから、それならって、譲ってもらった本なんスよ。」 でも正直なところ、オレは本に興味はないし。 本だって読んでくれる人にもらわれた方がきっといいだろうから。 「だから、よかったら、君がもらってくれないスかね。」 にこ、と微笑んで言えば、目の前の少年の顔が、徐々に綻んでいくのがとても良くわかる。 背景の花のつぼみが、一気に春を迎えた。 そんな感じだ。 「…あ、自己紹介がまだだったっスね。」 いけないいけない、と自分の頭を掻く。 ここまで話しておいて自己紹介もまだだとは、普通の人間にはあまりないことだろう。 「オレ、黄瀬涼太。クラスは違うけど、仲良くしてね。」 「僕は黒子テツヤと言います。」 どうぞよろしく。と深々とまたお辞儀をしようとするもんだから、もういいもういい、と慌てて押しとどめる。 同い年なのだから、もっと気軽に接して欲しい。 そして少年は、あ、と呟くと、そういえばお礼もまだでした、と慌ててイスに座り直した。 「…あの、黄瀬君、本当にありがとうございます。」 初めて見た笑顔は、オレに向けられたものと言うよりも、彼が大切そうに胸に抱く本に向けられたものだろうけれど。 それでも、そのきっかけを作ったのはオレなのだから、オレに向けられたものだと信じよう。 「ど、いたしまして。」 大切にしてね、と言えば、もちろんです、と弾んだ声で返された。 表紙を見て、ぎゅうと抱き締めて、もう一度表紙を眺める彼の、なんて可愛らしいことか! 「……ね、その代わり、ひとつお願いがあるんスけど…。」 未だに本を両腕から放さない少年を、首を傾げて覗きこむようにして見た。 そうすれば、なぜか少年までも首を傾げて、何でしょうか、と返された。 無自覚だろうか。 「この間落としちゃった本、まだ持ってる?」 「あ、はい。それはもちろん。」 「良かったら、それ、オレにくれないっスか?」 「…でも、もう、読める状態じゃ、」 「それでも、」 お願い、と頼めば、不思議そうな顔で了承してくれた。 それじゃあまたね、と教室を出て行く。 そうすれば偶然廊下に居たこのクラスの担任から、勝手に教室に入るなと怒鳴られた。 まあうん、もちろん全く気にしない。 ぱたぱたと廊下を走りながら、先程の友人との会話を思い出す。 忍者と黒子、うん、似ている気もするが、多分根本的に違う。 そんなことを思っては、ひとりで笑った。 不運にも彼が落としたあの本は、きっとこの先、オレの宝物になるのだろう。 確証はどこにもなかったが、なぜかそんな確信だけがあった。 数日前のオレ、前言撤回だ。 いや、言ってはいないから、前思撤回か。 まあなんでもいい。 オレは、雨が大好きだ。 +++ 雨の日はじめじめして嫌ですね。 でも雨に打たれるのはとても好きです。