「黒子っちって、ふと目を離したら、消えちゃいそうっスよね。」 「え?」 はたりと瞬きをすれば、まつ毛が肌に当たって少しだけくすぐったかった。 引き寄せられる力。 引き落とされる力。 引きずり落とされる力。 ひとはそれを、引力と言った。 「人間は、消えませんよ。」 「うん、いきなり変なこと言ってごめんね。」 声の調子をいつもと崩さずに、黄瀬は軽い調子で言った。 それに黒子は、手元にあるカップを持ち上げると、それに口をつけた。 「消えないで、欲しいっス。」 「何がですか。」 「黒子っちが。オレの前から。」 「消えませんよ。」 二人とも、言葉の端に隠れた言葉を言わずに言う。 もう消えないでね。 もう消えないからね。 「…黒子っちは、ずっと見てないと、すうっと空気に融けちゃいそうっスね。」 「だからと言ってずっと見られていたら窮屈で仕方ないんですが。」 「だけど、怖いんスよ。」 誰かのように特殊な目を持っているわけでもない。 誰かのように君の唯一の光になれたわけでもない。 そしてオレは、君を引きとめることもできなかった。 「怖い。」 黄瀬は一言だけ呟くと、黒子に向けて、それでも少しだけ笑った。 それに黒子は、手元に転がっていた黄瀬のペンを手に取った。 灰色のそれをくるりと指で回すと、危うげもなくそのペンは手のひらに収まる。 「黄瀬君。」 「え?」 「このペン、見ていてくださいね。」 ぽん、と黒子はペンを軽く上に投げた。 それは少しの間宙を舞って、床の上に小さな音を立てて落ちた。 ころころと転がったものの、黒子の足に当たって、すぐににその動きは止まる。 「これ、落ちて来たでしょう。」 「…うん。」 「どうして落ちてきたんだと思いますか?」 「………どうしてっ、て、」 重力で、っスよね? 黄瀬が不思議そうに黒子に尋ねれば、そうですよ、と呟いて、落ちたペンを拾う。 そしてペンの先端をゆっくりとした仕草で黄瀬に向けた。 「つまり、そういうことです。」 「……ええと、」 「重力が、あるんです。僕には。」 物理的な意味じゃない。 特別な引力があるんです。 黒子は呟いて、そのペンを持った手を自分の元へ寄せた。 「だから、空気に融けるなんてこと、不可能なんですよ。」 この引力が、あんまりに優しく、僕をここに縛るから。 「ね、黄瀬君。」 だから、安心してください。 君は、ここにいる僕の引力。 (君が居なくなったら、本当に空気に融けちゃうかもね。) +++ 自覚のない引力と、引き寄せられる物体の話。