彼はオレと居ても、オレの部屋に居ても、基本的に自分の生活ペースを崩すことはない。

それ故に、オレが居ようと居まいと普通に読書をする。



いや、それはいい。それは全然いい。

むしろ観察し放題超ラッキーだなんて思うくらいには全然いい。

片手にカップを持ってココアを飲みながらの読書タイムは、いっそ優雅にすら見える。


だけれど、気になってしまうのだ。



これは、そう、




「…黒子っち、目ェ悪くなるよ。」

「平気です。」

前髪が目の前にばさりとかかっている状態でも平気で本を読み進める恋人。

幾らなんでもそれでは目に良くない。


「平気じゃないでしょ。ホラ、ちょっとこっち向いて。」

「わ、ちょ…!」

頬に両手を添え、無理やり自分の方へ向かせると、不服そうな声がした。

が、そんなことは気にしないことにする。彼の視力の方が大事だ。



「ホラ、前髪全部視界に入ってる。」

「大丈夫です。今良いところなんです放してください。」

「大丈夫じゃないってば…。」

いやいやと首を振ってオレの両手から頭を解放しようと奮闘する黒子っちの何と可愛いことか。

以前本人にそう言ったら全力で殴られたからもう絶対言わないが。



「前髪、耳にかける?」

「耳…。」

はい、と耳にかけてやっても、微妙に長さが足りないのか、下を向けばすぐにぱらりと落ちている。

分けても同じことで、分け目のついていない髪は、すぐに元に戻って顔にかかる。



「じゃあいっそピンで止める?オレ持ってるし。」

「そんな、女の子や黄瀬君じゃあるまいし…。」

「あれ、今オレはどこのカテゴリに入れられたの。」

多分、痴漢とかする人に当てはめるべき敬称の場所であろう。

そんな自分の想像に泣きなくなりながらポケットを探れば、黒いピンが二本出てきた。

それを掴むと、黒子の頭をもう一度自分に向けさせた。




「はい、こっち向いて。」

「え、ほんとに付けるんですか。」

「うん。だって目ェ悪くなっちゃうの嫌でしょ?」

ね、と聞けば、まあそうですが、と歯切れの悪い返事が返ってくる。

それに気を良くして、黒子の髪を斜め分けにして左右に止める。


途中で白い頬に目が行って、思わず撫でたら鳩尾に拳が入った。

相変わらず痛いです。



それでも額が出たことで視界が開けて気分がよいのか、くるくると黒子は部屋を見渡した。

正直、可愛らしいピンじゃなくてただの黒ピンを持って来た自分に苛立たしくなった。

花やリボンや色の付いたピンを持ってくるべきだった。

いやまあ持ってないんだけど。



「…黒子っち可愛い…!」

「はあ、そうですか…。」

「ね、写メっていいスか、写メっていいスか。」

「嫌です。」

「ああああでも額にちゅーしたくなって困るその髪型ァ…!」

「やかましい。」

が、と顔面を文庫本の、しかも角で殴られた。

モデルの命であろうと、彼には関係ないらしい。


その痛みに耐えて居る内に、黒子は再び小説の世界に入り込んでしまっていた。

良いところだと言っていたのを強制的に現実世界に引き戻したのだ。文句は言えない。

それでも、白い額にピンからはみ出した水色の髪が一筋零れていて、目を奪われた。



「……ね、黒子っち。」

「何ですか?」

「黒子っち、前髪切らない?」

「切ると幼くなるから嫌です。」

「そういえば中学の時は短かったっスね。」

あれも可愛かったスよ、と言えば、だから何なんですかと言いたげな目で見られる。



「だから何なんですか。」

あ、言われた。



いや、まあ、何が言いたいかと言うとですね、



「…今度前髪切るとき、オレに切らせてくんないっスか?」

ということなんです。



ぱちり、と黒子が瞬きをすると、今は止められている水色の髪と同じ色の眸が見え隠れした。

それに合わせて、額にかかる影が揺れる。


「…別に、良いですよ。」

「ほんと!?」

「ええ。どうせもう直切らないといけないですし。」

「やった!オレ頑張るっスよ!」

オレね、わりと手先器用って言われるんスよ!

だから頑張る!


黒子に言えば、もう読書は諦めたのか、しおりをはさんで、ぱたりと本を閉じた。

そして自分の前髪を軽く掴んで眺めている。

そう言われると伸びたかもしれない、なんてことを多分考えているのだろう。

彼の考えていることは、分かりにくいようで分かりやすい。



「あーなんか楽しみになってきたっス。」

「まさか黄瀬君に人の髪を切って喜ぶ趣味があるとは存じませんでした。」

「ちょ、その言い方やめて。なんか変態っぽい。」

「大丈夫ですよ。人の趣味は人それぞれですから。」

「嫌な感じに自己完結しないで!」

その言い方だと、なんか嫌がる女子の髪を引っ掴んでざっくざく切り刻んで楽しむ変質者の姿みたいじゃないスか!

オレ黒子っちの恋人っスよ!

恋人がそんなんで良いの!?


叫べば、彼は一度閉じた本を再び開いてしまった。

多分、うるさかったのだろう。

ごめんなさい。




「あ、黒子っち、ココアもっと飲む?」

「お願いします。」

いつの間にかカラになっていた彼専用のマグカップ。


黄瀬の家にはいつでもココアの粉が常備されている。

前に一度黒子ににコーヒーを出したら、ものすごい形相で一気に飲み干していたからだ。

あのときの表情は、思わずこちらまで顔を顰めたくなってしまうほどであった。



「じゃ、ちょっと待っててね。」

「ココアを待ってます。」

「オレを待ってて!」

既に、ミステリーかファンタジーかSFか、どこかわからない世界に入ってしまった彼からは返事がない。

邪魔しないように静かにドアを締めようとすると、彼の水色の目が、こちらを向いていた。




「どうかしたんスか?」

「言い忘れていたことがありました。」

ので、現実世界に戻ってきました。




そう言った彼の眸は、とても悪戯そうに輝いていて。





まあ、はい。嫌な予感はしていましたが。





「僕、他人に対しての警戒心が強いんです。」


「………知ってる。」


知ってる。


前に、「人に背中取られると内蔵抉り出したくなりませんか」ってちょうど黒子っちの真後ろに居た時に言われたから。

なんでこのタイミングでって思うほどのタイミングで言われて、思わずそっと退いたから。

それからは黒子っちの背中に立つときには必ず自分の腹を抑えるようにしていたから。



でもそれがどうしたの、と訝しげに振り返れば、彼はゆるりと本を閉じて、顔の位置まで上げて立てた。

とん、と軽く文庫本が肩に触れれば、そのせいで水色の髪がちらりと揺れた。






「だから、殺したいほどに愛してもいない人に、髪なんて触らせないんですよ。」






どうぞ、覚えておいてくださいね。





言って、不敵な光を載せた目は、直ぐに肩から降ろされた本に向けられた。

どこか機嫌が良さそうなのは、恐らく気のせいではない。








「………そ、う、ですか…。」






彼の背中に立ったわけでもないのに、

なぜだか内臓を抉られたような気がした。


それはきっと、心の臓とでもいうのだろうか。





(ああ、あれは彼から殺したい宣言をされたようなものなのに。)

(そんなこと言われて嬉しいだなんて、オレは狂ってしまったのだろうか。)






愛しい愛しい君との、

索漠とした約束。





+++


黄瀬はものすごく緊張した状態で黒子の髪を切る羽目になります。

でも気をつけようと緊張しようと、殴られるときは殴られる。