「ねえ、もしもオレの記憶が無くなったらどうする?」

「え、別に、どうもしませんが。」



少しだけ頑張って発した言葉に、何でもないことのように返された。

ああ、うん、はい、そうですか。





今日は、IFの話をしよう







「ああ、でもそれまでの人間としての生活を忘れてその辺で用を足されたら困ります。」

「ええええと、じゃあ黒子っちのことだけ忘れるって設定で!」

「随分使い勝手の良い脳だと感心します。」

「ちがう!オレが聞きたいのはそういうのとちがう!」

違うの!と両手を振れば、無言でべちんと叩き落された。

目障りだったんですね、スミマセン。



「…で、君はそんなことを訊いてどうしたいんですか。暇なんですか。暇なんですね。」

「暇なわけでは、」

「暇ではないのならばその用事に今すぐ戻りなさい。」

「やだなあ、黒子っちを愛でることで俺は毎日忙しいんスよ!」

キラッと言う擬音が付きそうなほどに良い笑顔を向ければ、無表情で見つめられた。

暴言を吐かれるよりもぶん殴られるよりも何よりも、実は一番その応対が辛かったりする。



まあ、ちょっといきなりだったかな。

そんなことを思いつつ黒子の方に目を向ければ、黒子もこちらを見ていた。

水色の眸が、はたりはたりと、見えたり隠れたりを繰り返した。



「……ま、たまにはそんな話に付き合ってあげてもいいでしょう。」

「アレ、めずらしい。黒子っちが本閉じてくれるなんて。」

「これはちょっとハズレでした。」

「なるほどね。」

そっか、と言った言葉は、意識を別の方向へと向けていた彼には届いていない。

ふらりと視線を彷徨わせ、部屋の壁紙を眺めている。



「…君の記憶が無くなったら、ねえ。」

「うん、それも、黒子っちのことだけ、忘れてしまったら。」

「まあ多分、最初は何とかしようとすると思いますよ。」

「やっぱ寂しいから?」

「僕が君を覚えているのに君が僕を忘れるだなんて、腹立たしいにも程がありますから。」

「ああ、うん、そういう人だよね。」

まあ問題は方法ですかね、と、閉じた本を触りながら黒子が呟いた。

するりと撫でられた本には、それでもしおりが挟まれていた。




「そりゃま、やっぱ黒子っちの愛の力でしょう。」

人差し指を立てて言えば、例えば?と返された。

そりゃあもちろん、定番で行きましょう。


「オレを想って泣いてくれたり、オレが寝ている間にそっとキスをしてくれたり、」

「どこの少女漫画ですか。」

「今少女漫画好きさんを一気に敵に回したっスね。」

「どうでもいいです。」

本気でどうでもよさそうに黒子は言うと、顎に手を当てて呟いた。

そういう非現実的なことではなくてですね、と。



「まあ、机で君の顔面を中心にぶん殴って衝撃を与えるショック療法を愛と呼ぶのなら。」

「それはただのバイオレンス療法っス。しかもソレ、治療じゃない。」

例えそれの0.2%くらいには愛が含まれているとしても、ちょっと甘んじて受けてあげられない。

多分、本気で生命の危険を感じながら、全力で逃げさせてもらうと思う。



「あ、もしくは花瓶で君の顔面中心に、」

「机と花瓶が変わっただけっスよねオレの顔面に対する被害は全く変わっていないんスよね。」

「いや花瓶の方がきっともっとよくめり込みます。」

「被害が拡大しただけっスよね!?」

叫んでから、全身を揺らすほどの盛大なため息を吐かざるを得ない。

全くどうしてこう、この人相手には、会話の誘導が出来ないのだろう。






「…って言うかもう、黒子っちは本当に、俺の記憶に頓着しないっスねえ。」

黄瀬君は寂しいっスよ、とふざけて言えば、何を当たり前のこと言っているんですか、と返された。





「だって、この先ずっと、君は僕の傍に居るんでしょうが。」





「…え。」

「だったら別に、たったの数十分の一くらい、失ったって良いじゃないですか。」

「……え?」

「何ですかそれすら嫌だっていうんですか。男のくせにケチケチしてんじゃないですよ。」

「いや、あの、」

「まあもちろん、たかが記憶が無くなった程度で君が僕の傍を離れると言うのなら、」


話は別ですが、ね。



言いながら黒子は持っていた本を持ち上げて、ゆるりと額に当てた。

そして何かを含んだように笑うと、少しだけ目を伏せた後、こちらを見た。

水色が見つめてくる。




「ねえ、黄瀬君。」




ああ、もう、無茶苦茶だ。この人。


今までの記憶を失うと言うことは、出会った時の記憶までごっそり失うということで。

中学からのエピソードも今ここで話している記憶も全て失うということで。

なぜオレが君にその愛称を付けたかという記憶まで、寂しいまでに失うということなのに。


それなのに、この人は、それでも、オレが、自分の傍から離れないと思っている。




「…ぶ、っはっ!」

「何がおかしいんですか。」

「いや、もう、ね。綺麗に予想を裏切ってくれるね。」

「?」

わけがわからない、頭でも可笑しくなりましたか、そんな目で見られた。



いいじゃん、たまには思いっきり笑わせてよ。

オレとの今までの記憶を、たかが、とか、言っちゃうんだもの。

これから先、何十年とあるから、これまでのほんの少しの時間ぐらい、端数に過ぎないって。




もうね、そんな君だから、どこかではわかっていたのかもしれない。

こんなに大きな問題も、大した問題ではないということ。




「大丈夫、これから先、何を忘れても、黒子っちのことだけは覚えてるよ。」

「いやトイレの仕方を覚えていてくださいよ。」

「やけにそれにこだわるね!」


良いセリフを言ったところで、君にはただの会話文でしかない。

そうだった、恰好良くて素晴らしくて綺麗なコトバより、

地べたを這いずってそれでも絞り出すような言葉の方が、君は好きだったね。




「君が忘れても、僕が覚えています。」

「心強いね。」




本当に、心強い。

二人ともお互いのことを忘れたとしても、なぜか大丈夫な気すらする。

確証も何もないけれど、そんな確信だけはある。






「……いいの?オレから離れるチャンスなのに。」

少しだけ笑って、相手を見つめる。

そうすれば、自分よりも遥かに悪い笑みで、何言ってんですか、と返された。




「僕の記憶が無くならない限り、君を逃がしてやるはずがないでしょうが。」

「……ハハ、」



ああ、そうだね。全くもってその通り。

記憶が無くなったことをきっかけに、本来あり得るはずのない関係に終止符を。

なんて無駄に恰好良いこと、君が考えるはずもなかったんだ。





だって、だって、





「ほんの数日だろうと、僕から君を奪っておいて、何もお咎めなしと思わないでくださいよ。」







未来も仮定も例えもいらない。


君よりも確かなものはないんだから!










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それに、記憶がなくなったら、また君と1から恋ができる。

こんなに楽しいことは、他にないだろうね。