今を生きている人間を殺すのに、毒も凶器も暴力もいらない。 ただゆるりと手を振って、笑いながら言葉を吐くだけでいい。 「君は、昔の方がよかったね。」 Embellir 「あ。」 「え?」 ポケットで震えた携帯に思わず声を上げれば、目の前の席から声が返って来た。 ちかちかと光るランプに、ぱかりと携帯を開けた。 「何、メール?」 「そうですね。」 言いながら、黒子はカチカチとキーを押した。 目の前にいる火神は、もしゃもしゃと吸い込むようにパンを食べている。 昼休みの教室はざわざわと忙しなく、落ちつくような落ちつかないような雰囲気が溢れている。 やりたいことをやっているひと、やりたくないことをやっているひと、様々だ。 そんな中で黒子と火神は、特にやるべきことがあるわけでもなく、いつもと同じように栄養補給中だった。 「……黒子、どした。」 「え、あ、何でもないです。そのパンおいしそうですね。」 「食う?」 「どこから食べていいか分からない大きさですね。」 「がぶっといけ。」 「君じゃないんですから。」 言いつつも、結局がぶりと噛みついて一口頂いた。 肉がメインであろうパンは、とてもおいしい。 「君はよくこれだけ食べて太りませんね。」 「運動してっからな。」 「限度を超えてるでしょう。」 どうせならその栄養が脳に回りませんかね、と言ったら、余計なお世話だと額を小突かれた。 いつもと変わらない会話の日常。 そんな中で、ポケットに再び仕舞われた携帯を、左手でそっと握りしめた。 ひやり、と冷たい感触がした。 +++ 部活が終われば、辺りはもう暗い。 夕闇から、ただの闇になって行く。 そんな時間。 「黒子っちー!」 「ちょ、危ないでしょう。」 「つれないっスねえもう。」 でもそんなところも好き!そんなところが好き! などと近所迷惑なほど叫びながら、黄瀬は手を顔の横で組んで乙女のようなポーズを作った。 「それにしても、こういうことはもう少し早めに言ってもらえませんかね。」 「それでも来てくれたでしょ?」 「今日は気が向いただけです自惚れないでください。」 言いながら、再び抱きついてこようとする学習能力のない黄色の頭を殴った。 それに頭をさすりながらも、やだなあ、と黄瀬は笑った。 「大体、泊まりの道具なんか一切用意してきてませんからね。」 「それはもちろんわかってるっス。オレの使えばいい。」 「まあ、とりあえずは今日が金曜で助かりましたね。」 「オレってばタイミングがいいから。」 昼休みのメールにて、急に泊りに誘われて、待ち合わせをして。 話しながら、ゆっくりゆっくりと歩を進めるのは、黄瀬の家へ向けて。 街灯の淡い光だけを頼りに、小さな足音を立てて行く。 「もう真っ暗ですね。」 「夜だからね。」 「目を離すと、その隙にいつのまにか暗くなって。」 「夜だからね。」 黄瀬の言葉には何も返さずに、黒子はただ小さく呟いた。 「朝が待ち遠しい。」 +++ 「黒子っちお風呂どうぞー。」 「いえ、君の後でいいですよ。というかむしろ皆さんの最後で。」 「じゃあオレと入る?」 「お先に頂きます。」 服やら何やらを全て借りて風呂へ向かう。 湯船に浸かれば、今日一日の疲れはどこかへ消えて行くようだ。 じんわりじんわり。 足先から首までを、温かい温度に侵食されていく。 「ばかめ。」 そっと呟いた独り言でさえ聞き逃さないかのように、声が跳ね返ってきた。 天井から水が滴り落ちては、ぴちゃんと音を立てて、また反響した。 風呂からあがって借り物のタオルで体を拭いて借り物の服を着る。 七分丈の服を借りたはずが何故か長袖になっていたが、気にしないことにした。 「黄瀬君、お風呂お先に頂きました。」 「あ、うん、じゃあ次入る。」 「先に入らせていただいちゃって申し訳ないですね。」 「いやいや黒子っちの次なんて願ったり叶ったりっスよ!」 「そのまま沈んでふやけて溶けてしまえ。」 早く行け、と部屋から蹴りだしてお見送り。 ゆっくりゆったり頭のてっぺんまで浸かって来なさい。 「黒子っちも一緒に入、」 「まだ粘りますか。」 ああなんてばかなんだろうこの人。 黄瀬を風呂に押しやってから、ぐるりと部屋を見渡した。 服も、雑誌も、教科書も、あるべき場所へとキッチリ仕舞われている。 所々に隙間はあれど、それは入るべきものが決められている場所だ。 そっと棚のひとつから雑誌をひとつ取りだして、中身も見ずに、床へ放った。 ばさりと音が鳴って、良く分からないページが開いた。 それを3回繰り返してから、ベッドを背もたれにして座った。 頭を持たれ掛けさせると、柔らかい毛布が頬を滑った。 その体制のままもう一度本棚に腕を伸ばすと、雑誌に指を掛けた。 「ばかめ。」 ばさり、と4回目の音が鳴った。 +++ 「黒子っち、今日はいきなり誘っちゃってごめんね。」 ハイ、と手渡されたカップには、温かいココアが注がれていた。 この手の中の柔らかい茶色とは別に、黄瀬の手には透き通ったこげ茶が注がれていた。 「寝る前にコーヒー飲むと、夜中トイレに行きたくなりますよ。」 「気を付ける。」 普通に飲んでいる時点で気を付けるもなにもないだろう。 そう思ったが、その言葉はココアと一緒に喉へと流し込んだ。 「温かいですね。」 「うん。すごく。」 じわりじわり。 掌から伝わる温度は、安心するあたたかさだ。 「話が戻りますけど、」 「うん?」 「別に、いきなりだって構いませんよ。」 「この間はひと月前に言っても断られた気がするけど。」 「それはそれです。」 「何ソレ。」 はは、と笑った黄瀬は、そっと机にカップを置いた。 透き通った茶色が揺れる。 「黒子っち、服ブカブカっスね。」 黄瀬の手が、落ちていた雑誌に伸びた。 「大きなお世話です。」 その手の上に黒子は自らの手をそっと重ねて、ゆっくりと制止した。 「首元空いてると、寒くないっスか。」 「心配されるほどではありませんよ。」 ゆるく握られた黄瀬の手は、黒子の手に包まれた。 風呂から上がりたての黄瀬の体温が、少し冷えた黒子の手に移って行く。 冷たい温度が、温かい手を包んでいる。 少しずつ冷やされていく黄瀬の手は、少しずついつもの体温に戻されていく。 「……黒子っちの手、ちょっと冷たいね。」 黄瀬が薄く笑いながら黒子に話しかければ、黒子は伏せ目がちにして声を紡いだ。 「そりゃあ、もう大分時間が経ちましたからね。」 何でもないように黒子が言う。 この冷えていく感覚にはもう慣れているからと。 これが普通の温度になりつつあるからと言わんばかりに。 「ねえ、黒子っち。」 普段よりもほんの僅かに掠れた黄瀬の声。 黒子はそれに、ひとつふたつと瞬きをしてから、なんですか、と答えた。 「……今日、すごく、会いたかった。」 「そうですか。」 黄瀬が少し顔を伏せて言えば、黒子は黄瀬を見ずに、部屋の蛍光灯を見て返事をした。 会いたかったよ、と繰り返した黄瀬に、もう一度、そうですか、と黒子は返した。 「オレはね、今のオレになれたことを、誇りに思ってたんだ。」 「そうですか。」 「だからね、それは、良いことだって、信じてたんだよ。」 「そうですか。」 信じていたはずなんだよ、と小さな声で言い直した黄瀬に、そうですか、とだけ黒子は返した。 その代わりに、黄瀬の拳をそっと解いて、指を絡めた。 温度が混ざる。 なんてことはない人間だった。 なんてことはない言葉だった。 なんてことはないはずだった。 「だけど、気づいたら、あいたくなってた。」 細く開けられていた黄色の眸は、きっとどこも見ていない。 床を、壁を見ているようで、本当はどこも見ていない。 黒子はなんとなくそう思った。 「肯定して欲しいわけじゃない。」 「そうですね。」 「過去を否定してまで、今を肯定して欲しいわけじゃない。」 「そうですね。」 誰に向けられた言葉なのか、はたまた何に向けられた言葉なのか。 ひと言ひと言、ゆっくりと丁寧に、自らに言い聞かせるように発する言葉は、まるで懺悔のようで。 「それなのに、苦しくなっちゃったんだ。」 もう使い物にならないと言いたげな目で、声で、向けられた言葉に。 溢れかえったおもちゃ箱の横に置かれたおもちゃは、きっとこんな気分だったんだろう、なんて考えてしまった瞬間に。 過去と今の風景が引き剥がされて区分されて天秤に掛けられてしまいそうになった途端に。 「息をするのが大変なんだって、初めて知ったよ。」 未だにゆるく弧を描かれている唇の代わりのように、黄瀬の手は少しだけ震えていた。 それをほんの少しだけ強く包んで、そうですね、とだけ黒子は呟いた。 「ねえ、黄瀬君。」 「え?」 呼んでから、持っていたココアをそっと床に置いた。 パステルカラーの茶色が、底の方に少しだけ残っていて、揺れた。 「僕には、君の世界は見えない。」 そっと、黄瀬の手に重ねられた手とは逆の手を黒子は上げた。 そして、まるで雪に手を差し伸べるように、宙に手を置いた。 勿論、その手には何も降り積もってなど来ないのだけれど。 「だから僕はきっと、君の望む言葉も、望まない言葉もあげられない。」 「うん。」 「きっと、昔も今も、一緒に居ることしか出来ない。」 「うん。」 でも、と呟いた黄瀬の声に、でも、と黒子の声が遮った。 「これからも一緒に居ることなら出来る。」 このバカみたいに広い世界の中、半径1mもいらないであろう2人だけの空間。 手を伸ばせば簡単に髪に触れられるくらいの距離。 それをいつまでも用意してやるくらいのことは出来る。 その金色の髪が絡まらないように、いつだってそっと指で梳いてやることは出来る。 「だから今は息の仕方なんか、考えなくても、出来るでしょう?」 ねえ、と確信を持った声で少しだけ傾げられた首に、黄瀬は、本当だ、と笑うしかなかった。 「簡単すぎて、泣く暇が出来ちゃいそうだ。」 重ねられた手を伝って、広げられたままの雑誌にひとつ、不格好な染みができた。 肯定も否定も優しい言葉もいらないよ。 ただただ、殺されかけたオレに、ああ死にかけですかって言って欲しかっただけなんだ。 「ありがとう、黒子っち。」 「礼を言われる覚えはありません。」 そっけない言葉とは別に、ちょっとだけきつく結ばれた唇が見えたから。 ありがとうのかわりに、こちらからも、冷たい体温に指を絡めた。 (でも、いつだって離さないで居てくれた手の温度を、オレは知っているよ。) +++ 鈴音様からのリクエスト、「仕事とかで少し落ち込んでるけど明るく振舞おうとする黄瀬を黒子が甘やかす話」でした。 甘やかす、というよりも、甘んじる、という雰囲気になってしまいましたスミマセッ…! 色々なことを改めて考えながら書かせて頂いて、いくら考えても時間が足りないくらい、とても良い機会になりました。 リクエストありがとうございました!